ドイツ空軍(ドイツくうぐん、独:Luftwaffe)
ドイツ空軍(ドイツくうぐん、独:Luftwaffe)は1935年の再軍備から使用されるドイツの空軍の名称。正式には Reichsluftwaffe と綴られるが、短縮して Luftwaffe(ヘルプ・ファイル) と呼ばれる。カタカナ読みはルフトヴァッフェあるいはルフトバッフェ。
前身は1910年設立のドイツ帝国軍航空隊であるが、第一次世界大戦の敗北により、1920年5月20日に解散。その後もヴェルサイユ条約によってドイツ国(ワイマール共和政)は、軍備を著しく制限されていた。アドルフ・ヒトラーがドイツ国(ナチス・ドイツ)総統就任後の1935年3月16日、再軍備化を宣言。このとき、空軍が正式に設立された。
第二次世界大戦に敗北し、1945年に空軍も解散される。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の主権回復後の1956年に再軍備化し、現在に至る。 長らく「専守防衛」を基軸とし戦闘には参加していなかったが、1999年、NATOがコソボ紛争に介入した際に派兵。第二次世界大戦以来、54年ぶりの戦闘参加となった。
第二次世界大戦以前より、世界各国がジェットエンジンの開発に取り組んでいたが、ドイツのハインケル社は、その中でも一早く世界初のジェット機He 178の初飛行を成功させた。この後ハインケル社はジェット戦闘機He 280を開発、メッサーシュミットMe262に先駆け1941年に初飛行を成功させたが、生産に移される事がなかった。諸説あるが、ハインケル博士のナチ嫌い、あるいはメッサーシュミット博士と空軍の密接さが一番の原因と考えられており、これはメッサーシュミットBf 109と競合と意図し、優秀であったとされながらも冷遇されたHe 100の前例も作っている。そのため、この技術が戦争中に生かされたのは第三帝国の終焉が見え始めた1944年の中盤、メッサーシュミットMe262が実戦化された時であった。Me 262は一撃離脱戦法で、連合軍機に対して4:1の撃墜比を誇った。プロペラ機に対するジェット戦闘機の威力は絶大で、米英の護衛戦闘機は爆撃機に迫りくるMe262に対して成す術はほとんどなかったが、イギリス、アメリカ、ソ連の三国を相手にしなければならないドイツにとっては焼け石に水であった。ジェットエンジンが技術的にも未成熟であったため、機械的な故障も多く生じた。それでも終戦直前までドイツ空軍は恐ろしい速度で、戦後のジェット戦闘機に受け継がれる新技術や分野を開拓していき、これらの技術は冷戦の中で吸収・熟成され、実を結ぶことになる。
イタリアの小都市ラパロで当時のドイツとソビエト連邦が秘密交渉を行い、1922年4月16日、ドイツ外相ヴァルター・ラーテナウ (Walther Rathenau) とソ連外務人民委員ゲオルギー・チチェーリンが経済協力を目的とするラパロ条約に調印した。これを契機に、ドイツ軍部は政府にも知らせずソ連との秘密軍事協力に向かい、1924年にドイツ軍は国際社会から遠く離れたロシアの奥地のリーペツク (Lipezk) に秘密の航空機訓練基地の提供を受けた。この基地でドイツ本国でヴェルサイユ条約の制約から許されない試作機の試験飛行や毎年およそ240名のパイロット養成が可能となった。協力関係は1933年のヒトラーの政権掌握まで継続した。軍事協力は航空機に限らず、戦車学校(ボルガ河畔のカザン)や毒ガス研究まで広がった。また、パイロット養成はヒトラーの政権獲得前からドイツ国内でも民間旅客機の操縦士養成の名を騙って始まっていた。
ヒトラーは、1935年2月にゲーリングに空軍再建を命じ、空軍の存在を公式に認めた。空軍再建にはリーペツクが重要な役割を果たした。
1936年から始まったスペイン内戦にドイツは反政府軍のフランシスコ・フランコを支援、新生空軍から義勇軍「コンドル軍団」を募り、実戦を通じて急降下爆撃や、戦闘機の4機編隊(ロッテ)の空戦技術を編み出した。この編隊飛行は現代でもフィンガーフォーとして生き残っている。
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